桜切る馬鹿 梅切らぬ馬鹿

それってもしかして私のこと?

教育と栽培

水たまり 映す春雲 空の色

          てれんぱれん

教育はよく栽培に例えられます。

教育を「盆栽型」教育と「栽培型」教育に分類したのは折原浩先生です。「盆栽型」とは、ある意図を持ち、外から圧力を加えて自然な枝の伸び方ではない形にしていく、いわば「鋳型」にはめるようにして育てるような教育のことで、「盆栽」の育て方によく似ています。「栽培型」とは植物を栽培するように、枝を伸びたいように伸ばしていく教育で、「栽培型」では人間が成長したいように成長できるようにするために、肥料を施したり、害虫を駆除したりして環境を整えることも教育の役割となります。

日本の教育(学校教育に限らず教育全般)は、「盆栽型」から「栽培型」へと少しずつ転換してきたようには思います。が、やはり「盆栽型」が主流なのかもしれませんね。(程度の問題でしょうか?難しいですね。)よく「悪い芽は早く摘まなければ」などと言いますね。伸ばしたい枝があるとそれ以外の枝は落としておかなければという発想もありますね。それは教育する側の発想ですから。

例えば、大谷翔平選手を考えてみると、彼が二刀流を主張したときにほとんどの監督は無理だと言ったと思います。バッターかピッチャーかどちらかに絞らないと「二兎を追う者は一兎をも得ず」という結果(どっちつかずでバッターとしてもピッチャーとしても大成できない)になるだろうと推測されていました。大谷選手の二刀流という伸ばしたい二つの枝が否定されてどちらか一つの枝を落とすように言われているようなものですね。どの監督も大谷選手を大きく伸ばすために二刀流をやめる方が良いと考えておられたのでしょう。栗山監督が二刀流として育てることを約束しなければ、今のメジャーでの大谷選手の活躍はなかったのかもしれません。そう考えると栗山監督は新世代監督なのだとわかりますね。

昔のタバコのコピーに「二兎を追うものだけが二兎を得る」というものがありました。なるほどと思わされますね。大谷選手の活躍で納得させられるフレーズです。昔から善しとされている「文武両道」というのは二刀流とは言わないのかな?二兎を追うことにはならないのかな?という思いもありますね。

指導的立場にある人が経験上の知識から若い人の願いを無理だと考えることは、野球に限ったことではないように思います。若い人達の伸びようとする芽を、よかれと思い、あるいは無意識のうちに摘んでしまうことのないように、私も含め年長の人は、注意深く若い人に接していくことは大切なことだと思います。 

「二兎を追うものは一兎をも得ず」

「二兎を追うものだけが二兎を得る」

この2つはどちらも正しいのでしょう。一兎も得ない人もいるし、一兎を得る人もいるし、二兎とも得る人もいるのでしょう。若い人にとっては、予測つかない急速な変化の中に今、生きていて、自分の力を試すことすらできない人生って何なの?という感じでしょうか?二兎、三兔と追えるものなら追いたいのでしょう。

 

ChatGPTというようなAIが出現し、まだまだ私達一般人がそれにまったく追いついていない社会で、どのようにAIが成長してそれに伴い人間社会がどのように変容していくのかが予測できません。進化や変化に頭も心もついていけていません。敬意というものがなくなり冷笑系と呼ばれる人達が増えてきて、教師と生徒・学生、親と子、各種師匠と弟子との関係、職場の上司と部下などの人間関係の変化は加速するのでしょう。どのように変化するのでしょうか?ChatGPTやそれに似たAIをコントロールする人がある意図を持ち、AIに情報の一部を渡さなかったらどうなるのか?AIが不具合を起こしたら?AIに頼りすぎ考えない人が増産されやしないか?職業と呼べるものはどう変わる?etc.不安要素は増える一方です。

そんな今の時代を生きていかなければならない子供達であり若い人達ですので、それぞれの個性に応じて自分で伸ばしたい枝を自分で選べるようにサポートできればよいのか、どんなサポートの仕方があるのかと、年長者として、親としては途方にくれながら、このブログに「桜切る馬鹿 梅切らぬ馬鹿」というタイトルをつけました。「それぞれの個性に応じた教育を」という願いからです。

今の子供達が将来ちゃんと自立できるために、今、必要なもの、今、できることは何だろうか?とあれこれと思いを巡らせ中です。変化が加速していくのは今後はもっと速くなるのでしょう。

この記事は、ブログタイトルを「桜切る馬鹿 梅切らぬ馬鹿」とした理由についての記事です。桜や梅に個性がありそれぞれに合う剪定の仕方があるように、一人ひとりの子供の個性や願いに沿った「栽培型」教育がなされることを願うものです。変化が加速されるこれからの社会で人が人らしく生きていくことについて考えているものでもあります。

 

※「ロボットが人間化しているのではなく、人間がロボット化しているのです。」は、養老孟司先生の言葉です。私もそうだと感じています。人はロボット化してはいけないし、ロボットを使うのは人間であって、人間がロボットに使われてはいけないと思っているのです。